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名古屋地方裁判所 昭和61年(行ウ)27号 判決

愛知県犬山市字西北野25番地の1

原告

山田幸次郎

右訴訟代理人弁護士

竹下重人

同県小牧市大字小牧字東浦1950番地

被告

小牧税務署長 竹田宗之

右指定代理人

天野登喜治

外3名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和60年7月29日付でした原告の昭和59年分所得税の更正を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は,昭和59年当時,商品取引業を営む訴外大石商事株式会社(名古屋市中区栄3丁目14番30号所在。以下「大石商事」という。)に勤務するかたわら,いわゆる外務員として,大石商事と顧客との間の取引の受託等の業を営んでいたものである。

2  原告の昭和59年分(以下「係争年分」という。)の所得税の確定申告の内容,これに対する被告の昭和60年7月29日付更正処分(以下「本件更正」という。)の内容,その後の不服申立ての経過は,別表に記載のとおりである。

3  しかしながら,本件更正は,原告の係争年分の所得を過大に認定した違法がある。

4  よって,原告は,被告に対し,本件更正の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1,2の各事実は認める。

2  同3,4の主張は争う。

三  被告の主張

1  本件更正に係る課税根拠について

(一) 総所得金額

原告の係争年分の総所得金額は金18,984,946円であり,その内訳は,(1)ないし(3)に記載のとおりである。

(1) 事業所得金額 金18,820,546円

右金額は,原告が昭和59年中に大石商事から受領した外務員報酬金34,128,265円から必要経費の金15,307,719円を控除した金額である。

(2) 不動産所得金額 金134,400円

右金額は,原告の昭和59年中の不動産所得に係る総収入金額金192,000円から必要経費の金57,600円を控除した金額である。

(3) 給与所得金額 金30,000円

右金額は,原告の昭和59年中の給与所得金600,000円から所得控除額金570,000円を控除した金額である。

(二) 純損失の繰越控除について

原告は,確定申告において,係争年分の総所得金額について,前項の総所得金額から前年分に生じた純損失の金額金21,265,911円を繰越控除したため,金2,280,965円の損失を計上していたが,前年分に生じた純損失を繰越控除できるのは,所得税法70条の規定に該当する場合に限られるところ,原告は,係争年分以前の各年分の所得税の申告について所得税法144条に規定する青色申告の承認を受けていない,いわゆる白色申告者であるから,所得税法70条1項の規定する「……(その年分の所得税につき青色申告書を提出している年に限る。)……」との要件に該当せず,また,原告が確定申告において繰越控除した純損失は,同条2項1号の「変動所得の金額の計算上生じた損失の金額」及び同条2項2号の「被災事業用資産の損失の金額」にも該当しないのである。したがって,原告が係争年分の総所得金額から前年(昭和58年)分に生じた純損失の金額と主張する金21,265,911円を繰越控除することは許されないのである。

(三) 納付すべき税額について

前記(一)に記載のとおり,原告の係争年分の総所得金額は,金18,984,946円であるところ,これから社会保険料等の所得控除額金1,783,970円を控除すると,課税総所得金額は金17,200,000円(国税通則法118条1項により金1,000円未満切捨て。)となり,これに所得税法86条所定の税率を乗じて得られる算出所得税額金5,678,500円から源泉徴収税額金3,352,824円を控除した金2,325,600円(国税通則法119条1項により金100円未満切捨て。)となる。

2  本件更正の適法性

以上により,前記の総所得金額及び納付すべき税額の範囲内でなされた本件更正は適法である。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1について

(一) (一)の事実は認める。

(二) (二)のうち原告が係争年分の総所得金額から前年分に生じた純損失の金額を控除することは許されないとの主張は争い,その余の主張は認める。

(三) (三)のうち,原告の申告に係る純損失が認められなかった場合の納付すべき税額等の金額が,被告の主張のとおりになることは認める。

2  被告の主張2は争う。

五  原告の反論

1  課税処分における禁反言の法理

納税義務の成立,確定,証明がすべて法律に基づくものでなければならないことは,租税法律主義からして当然の原則ではあるが,それに一切の例外が認められないわけではなく,課税庁もしくはそれに属しかつ権限のある職員が納税者に対し信頼に値する言動をし,納税者がそれを信頼して何らかの税務上意味のある行為をした場合には,その後に課税庁が前にした言動に反する行為をすることにより納税者に不利益を与えることは,納税者の信頼が正当なものである限りにおいて,たとえその後の課税庁の行為が適法なものであっても,禁反言の法理に照らして,許されないものというべきである。

2  本件課税処分に対する禁反言の法理の適用

(一) 本件更正に至る経緯は,以下のとおりである。

(1) 原告は,大石商事の外務員として,穀物,金等の商品先物取引の委託業務に従事していた者であり,訴外江口武夫(以下「江口」という。)は,昭和55年ころから,丹羽隆名義で,原告の仲介により,大石商事と商品先物取引をしていた者であるところ,江口は,昭和56年末から,大石商事との取引の未決裁部分が多額となったにもかかわらず,保証金の追加に応じなかったため,原告は,大石商事と江口との取引を打ち切った上,以後は自らが丹羽隆の取引名義を使用して,昭和58年2月ころまで,大石商事との間で,江口の建てた取引の処理及び新規の取引を行った。

(2) 江口の建てていた取引の整理は,昭和57年5月末ころまでに終了し,その時点における江口の大石商事に対する債務額は金20,125,200円であり,委託保証金銭高は金24,682,316円で,損失は生じていなかったが,原告が,その後も,丹羽隆名義で取引を継続したところ,同年12月末には,大石商事への債務額が金44,424,912円,委託保証金残高は金18,482,316円となり,その差額である金25,942,596円(以下「本件赤字分」という。)が原告の損失として残った。本件赤字分は,原告の江口に対する立替金となる部分と原告自身の取引による損失とからなるものであるところ,原告自身の取引による損失分については,当然原告の昭和57年分の損失として計上されるべきものであるし,江口に対する立替金の分についても,昭和57年末ころには,当時江口は多額の債務を負っており,無資力の状態であったから,同じく昭和57年分の損失として計上されるべきものであった。そこで,原告は,昭和57年分の所得税の確定申告に当たり,本件赤字分を総所得金額から控除して,既納付所得税の還付申告をしたのである。

(3) ところが,原告の昭和57年分所得税の確定申告についての調査を担当した当時小牧税務署の統括国税調査官であった木村敏夫(以下「木村統括官」という。)及び部下の増田国税調査官(以下「増田調査官」という。)は,本件赤字分は原告の江口に対する立替金債権と決めつけた上,当初は,丹羽隆名義の取引の大石商事に対する債務額と委託保証金残高が相殺されたのが昭和58年3月であることを理由に,その後は江口が昭和58年まで小牧市役所に勤務しており,その間は江口に対する立替金債権が回収不能とはならないことを理由に,原告の昭和57年分の損失とは認められないとの判断を押しつけた。

(4) 原告及び原告から昭和57年分所得税の確定申告事務の依頼を受けた税理士堀井富雄(以下「堀井税理士」という。)は,木村統括官らの判断に承服できず,執拗に判断の変更を求めたところ,同統括官及び増田調査官は,昭和58月8月下旬ころ,小牧市内の青色申告会事務所2階において,原告に対し,本件赤字分は,昭和57年分の損失としては認めず,原告の申告に対しては更正決定をするが,本件赤字分の扱いについては,昭和58年分以降本件赤字分が零になるまで,毎年損失として計上することを認める旨約束したため,原告は,これを信用し,被告のした昭和57年分所得についての更正決定(以下「昭和57年分更正」という。)を甘受したのである。

(5) 原告は,前記木村統括官らの約束を信頼して,昭和58年分所得の確定申告においては,本件赤字分のうち金4,576,685円のみを損失として計上し,源泉徴収税額金700,000円余のみの還付を受け,更に,係争年分所得の確定申告において,残りの金21,365,911円の損失を繰越控除したところ,被告は,前記木村統括官らの約束に反して,これを認めず,本件更正を行ったものである。

(二) 以上のとおり,原告は,木村統括官らの言動を信頼して,本件赤字分の一部を係争年分の損失として繰越控除したところ,被告が木村統括官らの言動に反して,これを否認して本件更正を行ったものであるから,本件更正は,前記禁反言の法理に照らして,違法である。

六  原告の反論に対する認否

1  原告の反論1の主張は争う。

2  同2の(一)について

(一) (1)のうち,原告が大石商事の外務員であったこと,原告が江口と大石商事の間の商品先物取引の仲介をしていたことは認め,その余の事実は知らない。

(二) (2)のうち,昭和57年5月末の時点での江口の大石商事に対する債務額が金20,125,200円で,委託保証金残高が金24,682,312円であったこと,原告が原告主張の内容の昭和57年分の所得税の確定申告及び既納付所得税の還付申告をしたことは認め,原告に昭和57年分の申告に計上すべき損失が生じていたことは否認し,その余の事実は知らない。

(三) (3)のうち,木村統括官らが,本件赤字分は昭和57年中には回収不能の状態になく同年分の損失にはならないとの判断に至ったことは認め,その余の事実は知らない。

(四) (4)のうち,木村統括官らが,原告及び堀井税理士と原告主張の場所で会ったことは認めるが,その余の事実は否認する。なお,木村統括官らが,原告らに会った日は,昭和58年9月1日であり,また,被告担当官が,所得税法70条1項の明文の規定に反するような指導を行うことは,被告内部の是正体制が整っていることから考えても,あり得ないことである。

(五) (5)のうち,原告が昭和58年分及び係争年分について原告主張の申告を行ったこと,係争年分について本件更正のあったことは認め,その余は否認する。

3  同2の(二)の主張は争う。

七  被告の再反論

1  課税処分と禁反言の法理

租税法律主義の原則に従い,負担公平の原則が採られている租税法においては,信義則ないし禁反言の法理の適用は否定すべきものである。なぜなら,租税法律主義の原則とその実質的な内容要素を構成する租税の負担公平の原則ないし租税の応能負担の原則とは,租税の負担の公平が租税要件の適正な適用と解釈によって実現されるべきことを意味するから,租税要件の適正な適用と解釈によって,実定法上,納税義務者に不利益がもたらせることはあり得ず,仮に,不利益がもたらせ得るとの理解によるとしても,この不利益を回避するための税務行政上の措置は,結局は,全財政現象の過程において,その不利益を他の納税者に転嫁して帰属せしめることを肯定することとならざるを得ないし,また,課税権を立法に内在するものとして構成されている租税法律主義の原則を否定することになり,許されないからである。

2  禁反言の法理の適用要件

仮に,課税処分においても信義則ないし禁反言の法理の適用があり得るとしても,負担の公平が要求される租税法律主義の原則の下においては,その適用には慎重でなければならず,租税法規の適用における納税者間の平等,公平という要請を犠牲にしても,なお,当該課税処分に係る課税を免れしめて納税者の信頼を保護しなければ正義に反するといえるような特別の事情が存する場合に,初めて,右法理の適用の是非を考えるべきものであり,右にいう特別の事情があったか否かの判断に当たっては,少なくとも,税務官庁が納税者に対し信頼の対象となる公的見解を表示したことにより,納税者がその表示を信頼して,その信頼に基づいて行動したところ,後に右表示に反する課税処分が行われ,そのために納税者が経済的不利益を受けることになったものであるか否か,また,納税者が税務官庁の右表示を信頼し,その信頼に基づいて行動したことについて納税者の責めに帰すべき理由がないかどうかという点についての考慮が不可欠であるところ,本件においては,これらの要件の存しないことは,以下の経緯から,明らかである。

(一) 昭和57年分所得税額の更正に至る経緯

(1) 原告は,昭和58年3月15日,昭和57年分の確定申告において,本件赤字分が顧客である丹羽隆に対する立替金であり,丹羽隆が昭和56年12月末日以降行方不明となっているため昭和57年中に回収不能になったから必要経費に該当するとして,総所得金額の計算上,これを控除して申告すると共に,被告に対し,納付済みの源泉徴収税を還付されたい旨の嘆願書を提出した。

(2) 被告担当官は,昭和58年6月ころ,原告の昭和57年分の確定申告書に記載されていた営業所得の損失額が約金26,000,000円に達する金額であったことから,調査のため,原告に対し,本件赤字分が昭和57年分に回収不能となったことを証明する資料の提出を求めたところ,原告は,同月17日ころ,堀井税理士を通じて,被告担当官に対し,丹羽隆は住所地(小牧市大字大輪3663)に住民票の登録がない旨の証明書及び住所地に居住していない旨の大輪区長の証明書を提出した。

(3) 被告担当官は,右各証明書に基づいて,小牧市役所,大輪区長に対して調査確認したところ,丹羽隆なる者が架空の人物であることが判明したので,原告に対し,堀井税理士を通じて,その点を質すと共に疎明資料の提出を再度求めたところ,原告は,同年8月8日に至って初めて,被告担当官に対し,丹羽隆が江口の取引上の仮名であることを明らかにした。

(4) 被告担当官が,江口について改めて調査したところ,江口は,昭和56年12月末日以降行方不明であるとの事実はなく,かえって,昭和35年6月に小牧市役所に採用されて以来同58年5月9日に退職するまで同市役所から相当額の給与を支給されていたこと,及び相当多数の不動産を所有していることが判明した。

(5) 被告担当官は,昭和58年9月1日,小牧青色申告会事務所において,原告及び堀井税理士と面接して事情聴取を行ったが,その際,原告に対し,本件赤字分は前項に記載の事情から昭和57年中に回収不能になったとは認められず,昭和58年分以降に貸倒れ損失として発生すべきものである旨説明し,その際,原告から,昭和58年以降は母親が病気で入院していたこともあって,見込み収入が少ないため,是非昭和57年分の貸倒れ損失として認めてほしい旨懇願されたが,これを認めず,原告も修正申告に応じなかったため,同年10月20日,上記の被告判断に沿って昭和57年分更正をした。右更正処分は,原告が異議を申し立てなかったため,そのまま確定した。

(二) 本件更正と禁反言の法理

前項記載の昭和57年分所得税額の更正に至る経緯に徴すると,被告担当官が原告に対して信頼の対象となるべき公的見解の表示をしたことは認められず,また,本件赤字分については,所得税法上,少なくとも昭和57年分ではなく昭和58年分の貸倒れ損失となることは明らかであり,被告のした昭和57年分更正ひいては本件更正によって,原告は何らの経済的不利益も被っていないことに帰するのであるから,本件更正には禁反言の法理を適用する余地はなく,これに反する原告の主張は理由がない。

八  被告の再反論に対する原告の認否

被告の再反論はすべて争う。

第三証拠

証拠関係は,本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録に記載のとおりであるから,これらをここに引用する。

理由

一  課税の経緯等について

請求原因1及び2の各事実は,いずれも当事者間に争いがない。

二  本件更正の適法性について

1  総所得金額

係争年分の原告の総所得金額は,合計金18,984,946円であり,その内訳が被告の主張一(1)ないし(3)に記載のとおりであることは,当事者間に争いがない。

2  繰越控除の是非

被告は,原告が係争年分の確定申告において控除を求めた原告の係争年分以前(原告の主張によれば昭和57年分,被告の主張によれば昭和58年分)の損失(すなわち,本件赤字分のうち昭和58年分所得税の申告で控除した金4,576,685円を除いた部分)の控除を認めなかったところ,原告は,所得税法144条の規定する青色申告の承認を受けていない,いわゆる白色申告者であることに当事者間に争いがなく,同法70条1項の要件に該当しない者であるから,右損失分については,これを係争年分に繰り越して控除することは許されず,この限りで,被告が本件赤字分の繰越控除を認めなかったことは適法である。

もっとも,原告は,原告の反論2(一)に記載の経緯からすると,被告が,右損失を原告の係争年分所得から控除しなかったのは,たとえ所得税法の規定に適合するものであっても,禁反言の法理に反するものであって,許されない旨主張する(原告の反論1及び2)ので,この点について,更に判断する。

(一)  課税処分についての禁反言の法理の適用とその要件

租税法規に適合する課税処分について,法の一般原則である禁反言ないし信義則の法理の適用により,右課税処分を違法なものとして取り消すことができる場合があるとしても,法律による行政の原理なかんずく租税法律主義の原則が貫かれるべき租税法律関係においては,右法理の適用については慎重でなければならず,租税法規の適用における納税者間の平等,公平という要請を犠牲にしてもなお当該課税処分に係る課税を免れしめて納税者の信頼を保護しなければ正義に反するといえるような特別の事情が存する場合に,初めて右法理の適用の是非を考えるべきものである。そして,右特別の事情が存するかどうかの判断に当たっては,少なくとも,税務官庁が納税者に対し信頼の対象となる公的見解を表示したことにより,納税者がその表示を信頼してその信頼に基づいて行動したところ,のちに右表示に反する課税処分が行われ,そのために納税者が経済的不利益を受けることになったものであるかどうか,また,納税者が税務官庁の右表示を信頼しその信頼に基づいて行動したことについて納税者の責めに帰すべき事由がないかどうかという点の考慮は不可欠のものである(最高裁判所昭和60年(行ツ)第125号,昭和62年10月30日第三小法廷判決,判例時報1262号91頁参照)。

(二)  本件更正における禁反言の法理の適用の可否

そこで,まず,本件更正に至る過程において,被告側から,原告に対し,その信頼の対象となるべき公的見解の表示が行われたか否かについて判断する。

この点について,原告は,原告の反論2(一)(1)ないし(5)に記載の昭和57年分所得の更正に至る過程において,被告所部係官である木村統括官ないし増田調査官から,本件赤字分について昭和58年分以降毎年零になるまで繰越控除を認める旨の発言(以下「原告主張発言」という。)があった旨主張し(原告の反論2(一)(4)),証人堀井富雄(以下「堀井証人」という。)の証言(以下「堀井証言」という。)及び原告本人尋問の結果中には,原告及び堀井税理士が,昭和58年9月1日に,小牧市青色申告会事務所2階会議室において木村統括官及び増田調査官と会見した際(以下「本件会見」という。),増田調査官から右原告の主張に沿う内容の発言があったとする供述部分がある。

しかしながら,右堀井証人及び原告本人の各供述部分は,以下の(1)ないし(5)に記載の理由から信用できず,他に,原告主張発言の存在を認めるに足り証拠はない。

(1) 原告主張発言の内容は,所得税法70条の規定に明白に違反し,かつ,被告を長期間にわたって拘束することとなり後任者への引継ぎ等も必要となるものであるが,特段の事由がない限り,このようにたやすく法令違反行為が露顕し,自らの責任が問われるような内容の約束をするということ自体が,経験則上不自然であること。

(2) 原告主張発言の具体的内容について,堀井証言と原告の供述に食違いがあること。すなわち,本件会見の際の増田調査官の発言の内容について,堀井税理士は,「税務署のほうは,58年以降の年分でゼロになるなら同じじゃないかと。それだけですね。で,あとはあなたのほうが,それは繰り越して控除できると受け取った,ということですね。」との被告指定代理人の質問に対し,「そうです。そのことばからいけばそのとおりです。」と答え(第12回口頭弁論調書中の証人堀井富雄の証人調書6丁裏),増田調査官が本件会見の席上繰り越して控除できることを明言したものではなく,ただ,堀井税理士の方で増田調査官の発言の内容を,本件赤字分が零になるまで昭和58年分以降毎年繰越控除を認めた趣旨であると理解した旨証言するのに対し,原告本人は,本件会見の席上で,木村統括官ないし増田調査官は本件赤字分が零になるまで何年かかっても繰越控除する旨明言した旨供述し(第15回口頭弁論調書中の原告本人調書4丁表),その内容に食違いがあること。

(3) 堀井証言及び原告本人尋問の結果によれば,増田調査官が本件赤字分については昭和58年分以降毎年零になるまで繰越控除を認めるから昭和57年分所得から控除するのは断念するように勧める旨の発言をし,原告はこれを了承した旨供述するが,成立に争いのない乙第14号証及び証人木村敏夫の証言(以下「木村証言」という。)によれば,原告は,本件会見後も,昭和57年分所得税の修正申告をせず,なおも,本件赤字分を昭和57年分所得から控除するよう求める内容の嘆願書(乙第14号証)を被告に提出するなど,本件会見後も,本件赤字分が昭和57年分所得から控除されないことにつき納得していない態度を示していることが認められ,前記堀井証言及び原告本人尋問の結果と矛盾する行動をとっていること。

(4) 成立に争いのない乙第15号証の1,2によれば,本件会見の際作成された原告の聴取書(乙第15号証の1)及び原告作成の申立書(同号証の2)には,原告主張発言の存在を窺わせるような何らの記載もないこと。

(5) かえって,前記(1)ないし(4)に記載の事実並びに木村証言及び堀井証言によれば,本件会見の際の被告所部係官の発言は,単に「昭和58年分以降」の控除を認める旨の発言に止まり,この発言の趣旨は,本件赤字分は昭和58年分に限って損失として控除することを認める趣旨であったところ(第13回口頭弁論調書中の証人木村敏夫の証人調書中8丁表裏,10丁表),堀井税理士は,右発言の趣旨を木村統括官らに質すこともなく,これを昭和58年分以降毎年零になるまで繰越控除を認める趣旨であると誤解したこと(第11回口頭弁論調書中の証人堀井富雄の証人調書中8丁裏,第12回口頭弁論調書中の同証人調書中6丁表裏,7丁表)が窺われること。

上記のとおりであるから,原告主張発言の存在は認められず,他に原告の信頼の対象となるべき被告側の公的見解の表示の存在を窺わせる主張,立証もないので,本件更正に禁反言の法理の適用を考慮する余地はなく,右法理の適用を求める原告の主張は採用することができない。

3  本件更正の適法性

以上のとおり,係争年分の総所得金額は当事者間に争いがなく,被告が本件赤字分の繰越控除を認めなかったことも適法であるところ,これを前提にして算出される係争年分の原告の納付すべき税額は,被告の主張1( )に記載のとおり,金2,325,600円となることは,当事者間に争いがないから,その範囲内でなされた本件更正は適法である。

三  結論

よって,本件更正は適法であり,原告の本訴請求は理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用については行訴法7条,民訴法89条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 浦野雄幸 裁判官 杉原則彦 裁判官 岩倉広修)

〈以下省略〉

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